働く女性とマタニティ・ハラスメント―「労働する身体」と「産む身体」を生きる

働く女性とマタニティ・ハラスメント―「労働する身体」と「産む身体」を生きる

121頁、「小児科という、子どもの命に敏感であるはずの職場の対応は最後まで冷たかった。当直勤務もシフトどおり担当していたが、「いよいよもうつらくなってきた」妊娠後期に、月に五回、六回あった当直勤務をせめて三回くらいにしてほしいと申し出たところ「なんでそんなふうに妊娠した人ばかりかばわれないといけないんだ」と周囲に反発されたという」。

140−141頁、「彼女たちが「女性の身体性を主張しない」という戦略をとり続けるかぎり、企業社会に統合されたという内実は何もかわらず、むしろ、そのルールは強化されていくことになる。だが、彼女たちの妊娠期の問題は「勝ち組のリスク」として封印されるべきものではないはずだ。彼女たちが、企業社会の側に都合のいい「企業的な身体感覚」が強化された存在としてではなく、それを「裏切る身体」ちすて、参入した社会に同化されずにとどまる道が模索されるとき、「少数派」「勝ち組」として、切りすてることのできない総合職・専門職型女性の経験が浮かび上がる」。

177頁、「「妊娠しながら働くこと」への理解が得られない職場(あるいは状況がそれを許さない職場)では、女性は妊娠しても「労働する身体」であり続けるしかない。「産む身体」と労働の矛盾はどこまで「ない」ことにできるのか、その境界の設定は、ぎりぎりまで女性の側で調整されることなる」。

181頁、「毎年の、人事や上司との面接の場で「妊娠の予定を聞かれる」という事例がいくつかあったが、企業にとって妊娠は、妊娠する/しないという段階からすでに、女性の側の身体管理の問題とされているのである。さらに、それにともなう困難は、女性の側の「責任」において解決すべき問題とされる」。

194頁、「こうした職場においては、「労働する身体」は「労働だけする身体」ではなく、親役割を持った、あるいは、家族的責任を果たす身体として、互いに了解されているのだろう。そうした身体性が男女で共有されていれば、「産む身体」が特別視されることはない。むしろ、「共働き文化」のある職場では「労働だけする身体」のほうが、批判の対象となるのではないだろうか」。