図書館で借りた。付属のCDまで聴いた。

12頁、「ほめられてばかりで育って人間は、叱られることに慣れていません。ですから、叱られたという事実そのものに衝撃を受け、叱られたことに感謝するどころか、相手を恨むようにさえなります(中略)「優しく、厳しく」。私は、新生児の祈願や七五三などで寺を訪れる親御さんたちに、いつもこの言葉を贈ります」。

24頁、「ほめられてばかりで育った子どもは、思うようにならないことを他人や社会のせいにします。秋葉原で起きた殺傷事件の犯人も、「携帯メールで何度も予告したのに誰も止めてくれなかった」と、他人に責任転嫁しました(中略)そして成長したとき、自分の意見が通らないとキレます。自己主張ばかりして、人の意見を聞きません。人と議論をしてお互いの接点を見つけるなどの芸当はできるはずもありません」。

35頁、「こうした理屈抜きの「いけないことはいけない」という叱り方がときには必要だと私が思うのは、叱られる理由を自分で考えることで頭が鍛えられ、強くなると思うからです」。

50頁、「人は思わずカッとなったとき、相手の弱点や、言われたくない欠点を言ってしまうことがあります。「綸言、汗の如し」とは、出た汗が元に戻らないように、天子の言葉は絶対で取り消すことが出来ないという意味ですが、天子様でなくても、一度口にしてしまったことは、取り消すことはできません」。

73頁、「たしかに、これから世間に出るにあたって、ああしろ、こうしろとアドバイスするよりも、「よかったね」といっしょに涙を流し、出所をともに喜ぶことのほうが、はるかに受刑者たちの心を打つのでしょう」。

137頁、「高幡山のげた箱には「脚下照顧」と書かれているのですが、これは「自分の足もとをしっかり見なさい」という意味の禅の言葉で、じつは坊さんたちへの戒めなのです」。

158頁、「考えてみれば、ほめることは現状を肯定することにほかなりません。人間の成長には、現状を克服することが欠かせない要素です。ほんとうに相手を成長させるためには叱ることも必要です」。

159−160頁、「司馬遼太郎の『坂の上の雲』に、「・・・教育者はすこし乱暴なほうがいいという。『透き通った乱暴さが必要だ』」という一説があります。「透き通った」という、じつに秀逸な言葉で表現されていることこそ、「心から叱る」ということだと私は思います」。

184頁、「最後にあらためて「叱るとは何なのか」「人はどうして叱るのか」を考えてみましょう。その答えはひとつに集約されます。それは、波乱万丈がつきものの人生において、少々のことではくじけない強い人間になってほしいという願いが根本にあるということです」。