図書館で借りた。

【送料無料】非行の予防学

【送料無料】非行の予防学
価格:1,890円(税込、送料別)

38−39頁、「ところで、生活習慣のリズムが乱れている子どもが、直ちに反社会的行動の「おそれがある」とは言えないが、非行の傾向が深くなっている子ども(中学生)の場合、「睡眠」や「食事」などの生活習慣が落ち着いていないことが多い。例えば、深夜まで遊ぶために起きられず、朝食もとらず排泄もままならない状態で登校するために、心身に不調をきたすことがある。そうなると、不安定な心を生み出し、高じて他者の注意を過敏に受け止め、ときには生徒間の暴力に発展し、まわりを困らす。このように、非行をしない・させないためには、リズムのある基本的生活習慣を身につけていることが欠かせない」。

40−41頁、「非行の予防学で注視するのは、このような不規則な生活習慣は、自分の心身の発育に影響があるだけではなく、他者とのかかわりにおいてもルーズになることがである。すなわち、基本的生活習慣に無頓着な意識や態度は、みんなの約束(社会的規律)を軽視するそれとつながるのである。例えば、遅刻しないためには、眠い自分を戒めて起きる必要があるが、非行の子どもの場合は「自分を律する力」が弱いから、それができない。登校したとしても、こんどは自分の勝手を優先してしまい、集団生活のきまり(学校規律)を軽く疎んじ、多くの子どもたちの迷惑となる。社会的なルールを重んじ、他者との関係を意識した行いができるためには、毎日の「寝る・起きる」ことが規律正しく実践できることである」。

98−99頁、「三つは、「帰宅部」の子どもたちの多くは、自己を統制する力が弱い。スポーツは、苦しくても自己の限界に挑戦すし自分への甘えを断ち切らなければならないことを教えるが、そのことの体験が得られないからである。非行予防の目からすると、このことは重要である。彼らは、とかく他の生活領域でも自分を厳しく律しない態度を通してしまい、目先の遊興に自分を導くきらいがあるからである。四つは、彼らは、教科ばかりか運動においても「俺は何もできない」と自己を見下してしまっていることである。余る体の力を他者から非難を受ける行為(盗みや暴走行為など)に向け、かろうじて自分の存在を確かめている」。

136頁、「このように「転機」となったり、教師への不信感を増長させる「きっかけ」となったりする。この両者の違いはどこから由来するのだろうか。それは、子ども自身の改善意欲の状態(回復準備性)にある。「自分を伸ばしたい」と思い始めた矢先であれば、教師の「ひと言」は心深く染み込み、潜んでいたプラスの意欲が顕在化する。ところが、いまだにだらしない自分に甘んじている時は、せっかくの「ひと言」も素通りする。このことから、教師は、彼らがどのような心の状態にあるかを読み取り、それに応じた言葉を発するように工夫したり、その場のふさわしい雰囲気を考慮する必要があると考える」。

138頁、「これに対し、子どもから見て、親戚や近隣などの大人との関係は、ゆるやかな「斜めの関係」である。ときには、親や先生から注意されて落ち込んでいるとき、隣のおばさんが「いいのだよ」と言ってくれてホッとすることもある。このように、子どもたちは、「斜めの」大人から、いろいろと「ほめられる、認められる、感謝される、注意される」ことは貴重な体験となる。ただ、「斜め」だから、当の大人が十分に思慮して関わるとは限らない。それはそれでやむを得ないと思うが、子どもの育ちに複数の目が注がれることは、その育ちに別の滋養が入り成長を肥やすといえる。ところが、非行の子どもの場合、このような「斜め」の関係をつくってくれる大人が少ない。その理由は、親自身が地域の人々とのかかわりを敬遠しているからである。そればかりか、親の不適切な養育がそのまま放置されている。社会的にも他からはなれて、つながりや助けのない家族をつくらないようにしなければならない」。

153頁、「私の非行臨床の体験では、ほとんどの親たちは支援を望んでいるものの、「どのようにしたら受けられるのかがわからない」でいる。この場合、利用できる社会資源の情報に疎いだけではなく、他者に対し心を深く閉ざしていることが多い。私は「だれかの力を借りることは、何も恥ずかしいことではない。どの家族も悩みをもっているものだ」と話してきた。非行の専門者は、いたずらに「非行の子どもをつくった親」として非難するのではなく、親が抱える大変さを自分のものとして受け止め、親が少しでも困難を改善できるように勇気を引き出すことが大切である。それが子どもの利益になるからである」。

157頁、「そもそも、子どもは「しくじりながら大人になっていく」存在であって、大人は、子どもたちの試行錯誤を長いスパンで見守る姿勢が必要である。ただ、この場合、①見守るだけでよいときと、②積極的にかかわる必要がある場合とがある。前者の子どもは、もともと自分を律する力をもっていて、非行のあとは「まわりに迷惑をかけることはやらない」と心に決め、また自分も「このままではだめになる」との思いが強い。早い段階で、普段のまともな姿になる。このとき、子どもの決心を後押しするのが、「親の悲しむ姿をもう見たくない」と心するときである。親子の信頼しあう関係が再非行の防止の決め手であるのを教える。後者の子どもでは、なかなかそのような思いにいたらない。その理由として、親から十分に愛されてこなかったという家庭的な背景もあるし、子ども自身が抱えている性格・行動傾向や発達上の困難もある。また、学校生活上での不適応もある。実際は、これらの要因が複雑に絡んでいるので、子どもの個別の状況にあったかかわりが求められる」。

158−159頁、「とはいっても、非行の予防学では、原因探しでとどまることはできない。出来るだけ早く、彼らに「二度と悪いことはしない」と心に決めさせなければならない。子の決心は、加害者の子どもが迷惑をかけた者(被害者)の「痛み」を心に刻むことにある。先の「積極的なかかわり」を、私のかつての非行臨床からみることとする。まず、面接では、自分がおかした盗みや暴力の行為を「他者がどのように見ているのか」を考えさせた。自己の行為を「他者の目」で見させるのである。自己を「客観視」あるいは「客観化」させるための面接者と子どもとの共同作業である。例えば、暴力の非行の子どもは、自分の思い込みだけで判断し行動している。あるケースで、放課後、下級生に対し暴力をふるった子どもは、「自分をむかつかせた相手が悪い」といって自省しない。だから、他者と交わる力が汚わいまま取り残され、結果として、まわりの子どもから敬遠されるという悪循環になっている。面接では、被害者に代わって、被害を受けたものの痛みを伝えることがとても重要であると考える。面接者は、あらかじめいろいろな方法で被害者の気持ちを理解しておくことが求められるが、このプロセスは加害者である子どもの成長を促すばかりか、被害者の感情を大事にすることにもつながる」。

164−165頁、「ところで、ある子どもが間違った行為をしたとき、「もうやめる」と意思を固める場合と、そうではないケースがある。非行後の支援では、この行く先がどちらになるのかを見定め、それに応じたかかわりが求められる。一つは、直ぐにやめる子どもで、いわゆる一過性の非行で終わる。二つは、非行の状態から抜けられない子どもである(中略)これに対し、非行を抑制する気持ちの弱い子供は、①家庭生活において、「自分を本気で心配する人(親)はいない」と、なおも寂しい思いを抱いており、②生活規律もだらしないままである。③他者が自分の行いをどのようにみているのかについえては無頓着である。④ひとりぼっちであるか、友達がいたとしても駄目にしあう者しかいない。また、⑤学校では「学ぶ楽しさ」を味わえないでいる。非行後の成長支援のテーマは、後者の非行をやめない子ども(中学生)に対し、どのような働きかけがあれば、再非行を防げるのかである。幼少期からの積み重ねが、先に述べたようなすがたなのですぐに改善するのは容易ではないが、少なくとも、反社会的な行動を「しない、させない」ための喫緊の支援が必要である。このかかわりの方法には二つある。外から枠をはめることと、子どもの「内からの枠」づくりへの支援である。「外からのわく」とは、非行は自分の「不利益」になること、さらに再非行が続くのであれば「学校以外のところで特別に勉強することになる」ことを伝え、心理的な圧力を加えることである。彼らは、自分の置かれている立場には無知で、好き放題なことができると勘違いしていることがあるからである。非行臨床の面接では、少年鑑別所への措置、少年審判での保護処分として児童自立支援施設や少年院での暮らし、の指導などについて触れる。このとき、「少年事件の流れ」を簡潔に表した図をもとに、面接者の感情を入れないで淡々と話すのが効果的である。また「わからないところは質問してください」と言い、積極的に発言を求める。再非行があれば自分はどのようになるのかを疑似的に体験させるのである」。