アマゾンのマーケットプレースで買った本。

【送料無料】タフラブという快刀

【送料無料】タフラブという快刀
価格:1,470円(税込、送料別)

31頁、「つまり、相手が生きられるように、生きていくために、自分のもてる力をより発揮できるように、手を出さない、手を貸さないというのがタフラブである。一方、「突き放す」「捨てる」のは、相手が死んでもかまわない、崩壊しても仕方がないと考え、何よりも自分が安楽であることを優先する。これを愛(ラブ)などとは呼ばない」。

読み返している本。

26頁、「答えはイエスかノーでよいくらいに、聞くこちら側が目一杯に考えて準備して具体的に質問すると具体的な答えをもらいやすいです。たとえば「その子は、ある先生の授業のときに乱暴が多い。「先生の授業は好きじゃない」と言っているように見える。この先生と相性が悪いのかしら」と想像して、「先生の授業はいつも乱暴があるのですか」と質問してみる。(中略)クライエントのほうがいっぱい頭を働かせなければいけなくて、セラピストのほうが頭を働かせない質問というのは、よくないです。役に立ちません。そんなことわかっていたら、相談に来る必要はないわけですからね」。

30頁、「刺激―反応のとらえ方は、たとえば、黒いものを白いとその人が認知するとしますね。それは、その人の認知行動なんですね。だから、正しい、正しくない、という区別はないのです。それをそのままとることが大切なのです」。

46頁、「しかし、臨床での精神療法の基本的なところに戻ると、技法は結局は”問題をどのようにとらえるのか”と”それをどのように変容するのか”という、この二つの群にまとめられると思います。臨床での治療や援助では”クライエントの訴えている問題をどのように把握し理解するのか”、そして”その問題をどのように援助するのか”、この二つになります」。

51頁、「臨床で気をつけなければいけないことの一つは、私たちは問題の結果を見ているということです。「親がこうだからこの子はこうなった」という言い方をしていることがありますが、そう見えるかもしれないけど、それは結果を見ているにすぎないんですね。結果だけを見て原因に言及するって難しい」。

54頁、「難しいケースになるほど、混乱した結果を見させられて、そこに巻き込まれそうになる。専門家であっても、その混乱に入っていくと平気ではいられなくなる。すごく不安になる。そういうときに、自分が習ってきた理論を当てはめて安心しようとする。そこに、理論に基づく原因―結果のストーリーを作ってしまう。現実と違うものを入れ込んでしまうことがあるのではないでしょうか」。

56頁、「不安になったとき、ゼロ百思考になっていることが多いんですよ。「治さなくてはいけない。でも治せない」と考えるでしょう。そうではなくて、「自分が手伝えることは少しはある。どこかに少しはあるはず」と思うこと。若いうちは、「絶対に、全部、何もかも、完全に」と思ってしまう。(中略)けれども、わからないことはいっぱいあるし、そんなにきれいには見れませんね。そんなときには、ゆっくりと深呼吸でもして、クライエントの顔をゆっくりと見たらよい。混乱しているときに、わからないままに、理論的に正しく答えなければいけないと考えてそうしようとすると、ますます状況を混乱させることがあります」。

57頁、「原因を探すことが無意味だと言っているのではないの。探せたら探したらよい。だけど、急いで原因探しをしても、仮の原因にしか到達しないことが多い。それは、その人がそう考えたいという原因でしかないのです。だからクライエントが「これが原因なのだと思う」と言ったら、そう考えている、と考えてそのように対応すると良いです」。

73頁、「この宿題のような、目標の行動を行いやすくすることを”プロンプト”といいます。クライエントが目標行動をとりやすくするために出す手助けのようなものです、。そして、「つぎの診療日までにアルバイトニュースを買う」という処方、行動処方ですが、を出しました」。

78頁、「この他にも私は、”その日までに稼いだお金の累計を手帳にする”という行動処方も出しています。これは、彼が「働けた」とわかることが、彼にとっての働くことの励みになると考えたかたです。すなわち強化子になるということですね」。

83頁、「たとえば、自立をしたいというときに、「自立をしたいということは、具体的にはどのようなことなのか」と聞きました。すると、彼にとっての自立はとても簡単なことでした。それは収入を自分で管理したいということでした」。

89頁、「それからね、治療ではセラピストが進みすぎないことが必要なの。私はいつも、治療では、「這えば立て、立てば歩めの親心」は非治療的だと言っています。這ったら、「ああ這った」と患者が這ったところに止まって考えればよい。あるいは、這わなくても、そこに居るだけで、そこのところで、良かったともう。そんなところが必要です」。

90頁、「進めないで、決してクライエントを引きずっていかないこと。この逆のこと、クライエントは「まだ」と思い、セラピストは「もうよい」と思うことも、これも同じことです。ときどきこのギャップを「クライエントは否定的認知をする」と、とんでもないとらえかたをしていることがあるでしょう。とんでもないことです。クライエントとセラピストの間にギャップが出てきてしまう。その場合、クライエントがどうなりたいということについての、セラピストの見方が荒いのです」。

109頁、「治療によって生じた変化を、クライエントにわかるようにすることも大切です。たとえば、ある決まった心配事が頭に浮かんできて困るというところを治療の対象にしているとします。そのような場合、たとえば、一日のうちの一定の時間を決めて、その間にどのくらいの時間心配事が頭に浮かんだかを、ずっと浮かんでいたら一〇〇点、何も浮かばなかったら〇点という具合に大雑把に決めて、クライエントに自分で評価してもらうようにして、それがわかりやすいように点数化したり、グラフであらわしてもらったらいするのですね。クライエント自身が、治療することで少し良くなっているなあ、とわかるようにするのです」。

129頁、「私は、「こういうように聞いたのだけれど、それでいいの?」とか、「こう理解したんだけどそれでいいか?」のように、クライエントに直接尋ねることは少なくありません。「いいよ」とクライエントが答えてくれます」。

137頁、「クライエントが、「こうしたい、こうありたい、こうなりたい」と言う。まずはそれを叶えるように方向づけること。「それが今の目標ね」と言うようにして、現在をそこにつなげるようにする。最初は当然荒唐無稽な希望を述べられる。だけど治療が進んでいくと、だんだんと現実的になっていきます」。

140頁、「ものすごく具体的に、できるはずであるところを丁寧に指示すると、できやすくなりますね。できるようにするということは、そういうこと。先ほどの例でも例でもそれがわかるでしょう。環境を整え整えしながらできるところをさらにできやすくしていくの」。

141頁、「クライエントが今できているところから離れないこと。彼女はブドウの種をテーブルの上に置くことができていた。そこが頼りです。そして、そこから一歩ずつ進めていくのです」。

146頁、「指示は環境を整えることにもなるのですよ。指示も、その人の刺激状況への介入です。たとえば、今述べた症例の「ブドウの種を捨てる」という指示は捨てる行為のプロンプトになります。それは、その反応にとっての環境の整備でもあるのです」。

161頁、「「止めたいけど止められない」のですから、私は彼に「止めたいものは、止められるようになるといいね」と言いました。すると彼は「うんと」頷いてくれました。かれは、ちゃんと自分のことについて考えていることがよくわかります」。

171頁、「そこでつぎのようにしてみました。一つはお母さんのノートの最初に毎日つぎのような評価を書き込んでもらうようにしました。確認と大声と暴力について、それぞれ○、△、×で評価してもらうようにしました。たたおえば、「大声については一時間以上の大声は×、大声がないときは○、中間は△。(中略)」日記風にすると悪いところばかりを書きやすいですね。そうなると、少しの変化がわからなくなる。そこで簡単な○△×方式の評価を追加したのです」。

173頁、「いつもクライエントが困っていると自覚しているところに焦点を当て、そのなかの自然に変化しているところに気づけるようにする。大声を出さないほうが良いことに気づけば、そこではじめて「確認は黙ってしよう」という指示が効果的に用いられるのです。そうではなくて総論的に「大声はだめ」とか言っても、そんなのは治療にはなりませんよ。それは、外からの治療になってて、本人には届かない。クライエントが気付いているところ、動いているところに、丁寧にそっとそっていくと、クライエントの力が出てくるのですよ」。

179頁、「外から何かを付け加えるとかでなくて、そこで一生懸命に生活しているところに力を見つけ出すようなことが大切なところだと思います」。

184頁、「臨床は、目の前にあるもので治療するしかないのです。家族の他のメンバーのことを知らされないままで治療しなければいけないことも少なくないです。臨床現場は、あるもので治すのです。家族が来たら家族に説明したりお願いする。親だけ来て患者が来ないこともある。それでも北親に対応するし、それで少し良くなる可能性に期待します。あるもので治療ということです。」